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インド二十三日目

3/10 午前8:30起床

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*読者の皆様へ*

大事なお知らせです。

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本日のブログはピクのオナラを顔面で受け止めてしまったため、お休みします。

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[反省してほしい。]

私の語りなどあまり読みたくもないと思うので、この本投稿の半日後に書いた内容を付け加えています。

[かんじゅーす]

インドに来た大学生がよく口にする言葉がある。「物質的には貧しい生活を送りながらも、内的には豊かに見えた。」

  私は日本という自由主義先進国で育ち、その中でも母から多くの資本をもって育ったという自覚がある。日本はアメリカから直輸入された物質主義、マテリアリズムを標榜し物質的な充足を求めて資本主義に走ってきた。

  インドを訪れた大学生がよく口にする言葉がインド人と触れ合うたびに頭の中で反芻され、それはそれで事実だとも思った。

  しかし、物質主義的な環境で育った私は未だにその概念から距離を置くことができていないのかもしれない。生活に便利なものが増えれば、余分な時間が生まれる。お金がより多くあれば好きなものを買うことができる。つまり、生活における制限を取り払うものである。

  アメリカや日本などの先進国の人が物質主義的な考えを批判するのは、いわゆる人々がどれほどの資本を手に入れているか、という競争に陥っているからではないだろうか。

  何処へだって、人間ならばみな誰かに認められたいという欲望がある。物質的に貧しい国を代表するインドで暮らしている人々でも、である。ただ、先進諸国では物質的な充足を承認欲求として誤解している、そういう人が多過ぎるのだ。

  心の安寧を燃料にしたその終わりなき競争は、心を疲弊させ、生き甲斐や幸福感を不鮮明にさせるものである。ただ、物質主義的な環境に身を置いていると陥りやすいこの思考を積極的に自覚すれば、物質的にも精神的にも豊かになれると信じている。

  小さい頃から母親のお陰で資本主義社会で成功している大人達に会う機会が多かった。しかし、彼らの多くは競争に疲れ、精神を疲弊させながら富を求めていたわけではなかった。彼らは富を築きながらも、心の安寧を維持していたのである。

もし物質的な尺度であなたが優越感または劣等感を抱くことがあるならば、それは資本主義の罠にかかっているかもしれない。物質的にも精神的にも満たされている人は、他者と幸せを共有しようとするからである。

   ある時、ニーシャがこのようなことを私に言った。「たつきは嬉しい時も悲しい時も同じ表情をしているよ。あまり笑わないんだもん。」

  この言葉は私を動揺させたが、ヒンディー語ではこういう気持ちを表現しない人のことを「カンジュース」と呼ぶらしい。しかし、富だけを集め必死に守ろうとする人のことも意味するらしい。

  きっと内的な満足と外的な満足のどちらを取るか、といったような二項対立の話ではないのである。どちらの豊かさも必要な時代なのである。

  そんなことをインドに来てから考えるようになった。

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