3/11 午前8:45起床
特に何もしていない。起きて村を散歩してお腹が痛くなって帰って読書した。いつもみたいに日記に書くことがない。なので、少しでも私が現地と本で学んだインドの文化を読者の皆さんに共有したいと思う。
*内容が内容なので、もし読者の中で日本人の方がお見えでしたら、今日のブログは読まないようにしてください。異文化理解が求められる内容です。*
テーマ : 「牛の糞」
インドに行くと至る所に牛がいる。高校で「ヒンドゥー教は牛を神聖とし、イスラム教は豚を不浄とする。」と習ったことがある人もいるだろう。今回、初めてインドを訪問したわけだが、その通りであった。
[好き放題動き回る牛。]
ヒンドゥー教において牛の糞尿はどのようにして神聖とみなされるようになったのか、探ってみたいと思う。
「まず、身近な例を取ってみる。塩は生命維持にも腐敗防止にも役立つものである。日本人は浄めや厄払いにも用いることもある。それが、ヒンドゥー教においての牛の糞・尿なのである。
インドで神聖とする牛の対象は瘤牛の牝牛に限られていることはよく知られている。その歴史を辿るとインダス文明期の実用的な価値観に発して、神話や信仰は後から付け加えられたのだという。
古代インド文明の担い手であるアーリヤ人は遊牧の民として、牝牛を移動・運搬の手段として利用した。また、牝牛は乳やバター、ヨーグルトと言った貴重なタンパク源でもあった。そして牛糞は肥料や燃料としても用いられ重宝された。これらに浄めの尿を加えた五つをパンチャガヴヤ(牝牛の五つの産出物、つまり五宝)という。」
(「ヒンドゥー教・インドの聖と俗」より部分引用」以下同様)
この村でも牛の糞を使って生活に利用してる光景は毎日目にすることができる。きっと私が目にしているのは牛糞燃料だろう。
「暇さえあれば家の女や子供達は竹籠を頭に道端や野原に出かけて牛糞を拾い集め、それを丸く平らなホットケーキ型にこねあげ、家の土壁に張りつける。乾燥した牛糞燃料は、炭や炭団のように竃にくべられるが、燃えやすく、火力があり、余熱もあって使い勝手は良いという話だ。」
このように生活に利便を図ることのできるものとして牛は重宝され始めた。ホットケーキ型、と本では言及されていたが、私の村ではカウシットという英語のような名詞が与えられている。本の内容は私の村でも見ることのできる光景だ。
[牛糞の天日干しを回収する女性。]
[このような牛糞を天日干しする場所が至る所にある。 : 生活に根付いていることがよくわかる。]
では果たして、生活に利便性をもたらす牛はどのようにして神格化されていったのだろうか。
「叙事詩『ラーマーヤナ』に登場する牝牛「カーマ・デーヌ」の話はヒンドゥーなら知らぬ者はいない。カーマ・デーヌは聖仙ヴァシシュタに飼われる牝牛で、全ての望みを叶える力を保持していた。
これを知った王はどうしても手に入れようとして武器をもって奪おうとしたが、怒ったカーマ・デーヌに大軍を滅ぼされてしまった。人々の願いを叶えてくれる豊穣の牝牛に称賛が集まったのはむしろ自然であった。」
牛に関する神話はあげようとすればきりがないが、実用的な利便から発して後に神話によって神格化されたということは覚えておきたい事柄だろう。
インドの理解が深まれば、と思い書いたものの、私も異文化理解の難しさを痛感する毎日である。
<3/11>
3/11は日本人が忘れてはならない日付である。東日本大震災から8年が経った。8年前、小学校の卒業式の練習中に感じた少しの揺れは、600キロメートル東で何千という人の命を奪った津波を引き起こしていた。
自分達には何が出来るだろうか、答えが出ないまま過ぎた8年でもあったと思う。自然と被害の大きさを前にして無力さ覚える。